北海道からの川便り

「水辺空間を探訪する会」の活動報告(2)

「水すだれ」に映す川史
〜小樽・勝納川を探訪して〜

   水辺空間を探訪する会
    会長 水元 侃(二種正会員・会社員)

          

 前回に続き第2回目の活動報告を致します。今回は、平成13年5月19日(土)札幌の隣町小樽市の東部を南北に量流する、勝納川(カツナイガワ)を上流水道専用ダムから河口部まで、約5kmの区間散策する事として、会員14名での探訪記です。
 勝納川は昭和37年8月未曾有の大洪水があり、一定災及び関連工事の組み合せで治水対策は完了しているが、河川周辺は密集市街地で河道内の水辺環境は劣悪な状況である。
 現在河川再生事業により清流の回復、親水空間の創設に取り組んでいる所であり、今のうちに現状を見ておいて、将来その違いを確認する時の基礎知識としようというのが今回の一つの目的であり、又もう一つの目的として明治の後半から大正にかけて築設された小樽市の上水道専用ダムである「奥沢ダム」の歴史にも触れてみようということであった。
 「水すだれ」とは勝納川の上流にある奥沢ダムの階段式溢流路を流下する様を称「水すだれ」〜奥沢ダム余水吐したもので、爽やかで夏は涼感を誘い、秋は紅葉に映えて、四季折々の美しさを持ち、訪れる人々にひとときの安らぎを与える景観を持っている。1985年には、旧厚生省が企画した「近代水道百選」に選ばれているが、北海道で最初の水道専用ダムとして大正3年に完成し、北海道のダム史の幕開けとして、農業ダムの大正池などとともに取り上げられる著名なダムでもある。
 一時期、民放テレビの天気予報かなにかの背景として、この美しい「水すだれ」が映され、多くの人に知られるようになったようである。
 「小樽市水道五十年史」により勝納川とその流域の小史の一端に触れてみる。
 小樽市の水道は、古くは市域が殆んど山稜であるため飲料水や防火用水は渓流からの引水、湧水に依存していたものであるが、人口の増加と産業の進展、船舶用水の需要などから、北海道では最も早く、明治27年から英国人技師バルトン氏による水道創設の調査やその後の中島鋭治工学博士の指導で敷設計画がなされ、幾多の計画の変遷を経て、勝納川を水源とする「創設水道」は明治40年国の認可を受け工事に着手し、大正3年9月に完成通水を開始したものである。
(この点では、豊平川の広大な氾濫源と豊富な地下水に恵まれた地勢に形成された札幌市の水道創設は小樽市より後のことである。)
 勝納川は朝里川とならんで小樽を貫流する主要な河川であって、小樽の発祥地は信香町を中心とした勝納川沿岸で、次第に市街の体裁を整えながら、市内を流れる他の小流の沿岸から漸次奥地へと発展していったものである。
 川(水)と人の営み、流域の発展、洪水からの防御の図式はこの勝納川も例外ではない。
 明治二十年代後半の小樽市(小樽外6郡)の人口はおよそ3万5千人で将来人口を
10万3千人、そして函館とならんで道内二大重要港湾としての船舶給水を見込んで、水源を「勝納川」とする水道敷設計画がまとめられている。

水量
「勝納川ノ二股より上流ノ地積は…(18平方キロ)ナリ、而シテ明治二十三年ヨリ二十六年マデノ四年間ニテ雨雪量ノ最多量ハ二十五年ノ九月ノ二三六ミリ、最小ハ二十四年六月ノ一二ミリ、一ニテ下流ニ注入スル雨雪ノ量ハ其三分ノ一ト古来の大家ノ説ナレ共コノ計算安全率ハ過大ニシテ其ノ後ノ調査ニヨリ十万人ノ人口ニ一人一日二十「ガロン」以上ヲ給スルニ足ルコト明カナリ。」

「小樽水道ノ水源ハ、後志国小樽郡奥沢村字二俣ニ於テ勝納川ヨリ分水ス、該川ノ流水量ハ、夏期ノ最モ減水スル時ト雖モ二十四時間ヲ平均スレバ一秒時ニ大抵五立方尺ヲ下ラズ、冬期ハ反テ夏期ヨリ多量ノ流水アリ。」

 明治29年に道庁がまとめた実施測量計画調査の記述であるが、当時の河川状況(流90リットル、渇水量の5立方尺とは約0.135立米/秒であり、当初計画では「四時流水量ニ余リアルヲ以テ」ダム(貯水池)を設けない計画であったようである。
 その後、幾多の計画変更と日露戦争の勃発を挟んで、上水道(創設水道)の敷設が国庫補助率25%で認可を受け、総工事費100万円で本工事に着手したのは明治41年であり、人口13万人、一人1日97リットル、貯水量417,000立方米の堰堤【均一型アースダム(堤心に粘土2、砕石2、砂1の績量比による遮水壁―パットル工法)、堤長234.5m、堤高28.2m、堤体積154,000】を有するものとなった。

堰堤工事
明治41年に着手した堰堤工事は機械力が全く無かった当時としては全て人力で、人夫四、五十名を一組として三組交代制で、ポンプ数台で排水しながらの工事で、特に遮水壁の最深部(導水管隋道と交差する)は地表面から岩盤までが30メートルもあり、掘削が進むにつれて出水が益々多量になり至難を極めた。この間明治42年4月大暴風雨で勝納川の従来の記録を破る約60立方米/秒の出水氾濫による溢流路の変更、同44年の二度にわたる大出水、45年2月には掘進んだ両岸の法面が崩壊して大半が埋没する事故が発生している。

 明治の末期、小樽の発祥の地であったこの勝納川の流域沿川はすでにかなりの人口密集があり、河川氾濫による家屋などの被害が相当数発生したことが推察される。
 また、堰堤下を横過する導水管の隋道は1.8m×1.8mの馬蹄形で下部がコンクリート、上部アーチ部分は切石積でその目地からの漏水防止のため溶鉛詰めが施されており、トンネル内での中毒被害もあったようである。また「水すだれ」で知られる溢流路は21mの落差を10段からなる水溜階段を設け流水の減勢に配慮するとともに、水の浸透による洗掘崩壊を防止するため、水路を横断して両岸に達する深さ2メートル内外、幅80センチメートル内外の帯状のコンクリート(遮水壁)を打設している。また切石張りの目地には当時隋道と同じように溶鉛詰めが施されたようである。

勝納川の原形の契機となった大災害
 奥沢ダムの計画と工事の記録から明治、大正初期の勝納川の河川の状況を垣間見たが、今回の「探訪」の折にメンバーの山花さんから提供のあった昭和37年発生の小樽未曾有の大災害に関する新聞記事などの貴重な資料から、今日の勝納川の原形となった大規模な災害復旧による改修が行われた「川史」を窺うことができる。
 前述した水道史に見られるように、早くから発展した勝納川流域の人々と急流河川の勝納川の利水と治水のかかわりの歴史は古く、失業対策事業による改修も行われてきたものであるが、昭和37年8月上旬の台風9号は小樽に測候所開設以来の豪(32時間〜235o)をもたらし、河川の氾濫で死者2名と多くの家屋浸水、河岸決壊や12橋梁中9橋の破損など多くの被害が発生したとされている。
 当時の新聞記事のコラムの中に“おびただしいゴミ”、<不法投棄が悲劇生む>を見ると、勝納川の氾濫を目前にした地域の声として、異常な出水が一番の原因であるが、(流出家屋もないのに)おびただしいゴミ、古タンス、畳や様々な生活用材が流出し、それらが橋梁や添架管などに引っかかって河川の水位をせき上げさせたことも氾濫の一因であると述べられている。

 およそ“洪水はんらん”と呼ばれるものに様々なパターンがあるが、勝納川における37年の洪水はその地域の人々の目前で一つの氾濫のメカニズムを見せつけたようでもある。この大災害を契機として、地域の抜本的な河川改修への期待と熱意が今日の勝納川を形作っていったものであるが、この災害と大いに関係がある地域活動に「勝納川河川清掃」があげられる。道内各地の河川で様々な地域活動が行われているが、それぞれに歴史的な背景や特徴があるが、この勝納川の河川清掃には地域の人々にとって特別な思い入れがあって、流域の全町内会から毎年たくさんの参加により続けられている行事である。参加者はスコップ、ツルハシ、リヤカー、そして胴長の靴などの出で立ちで、終日泥まみれで河川の中から不法投棄された廃材やら様々なゴミを掘り出したり、拾い上げる清掃活動が長い間行われているのは、37年の洪水で考えられないほどの大量の大小のゴミが流下して、氾濫を増大させた状況を目前にし、水害の恐怖を体験した地域の思い入れがこの活動を支えているようである。(近年、各町内の高齢化と洪水の怖さを知らない世代も増え、勝納川清掃の行事への参加者が減ってきているとの町内功労の方の話もある)

 とりとめも無く書いてしまいました。水辺空間を探訪しながら河川とその地域の成り立ちやら、人々のかかわり、歴史などに思いを馳せるのもまた楽しからずやではないでしょうか。
 一日散策の心地よい疲労感を、この会の恒例となった最後の締めくくりとして運河沿いの「地ビール館」で楽しんで散会となった。
(尚、当報告は当会々員 金沢孝司氏のレポートから抜粋したものである。)

昭和37年水害記事-1
昭和37年水害記事-1

昭和37年水害記事-2
昭和37年水害記事-2

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