仙台市からの川便り

川の思い出(川あそび)
  佐々木 甲五郎 (二種正会員・(株)仙台土木設計 取締役)
          

1.はじめに
 戦前・戦中そして戦後と社会情勢の厳しい生活環境のなかで過した私達には、物のなかった時代に川は唯一の遊び場所であり、私にはあの川をなくして古里を語れないほど懐かしい想い出がいっぱいである。そこで、この川の想い出について記憶をたどりながら綴ることにする。

2.ふるさと
 私の古里は、一級河川が北西から南東に流れるやや下流の右岸側に拡がる田園地帯で、地区は川に添った細長い個数120戸ほどが点在する水田農業を主体とする稲作農家の地帯である。この川は、全幅でおおよそ250m低水敷は120mぐらいであり通常は水深が30cmから50cmの穏やかな流れであり対岸には用水の取り入れ樋門があり渇水の時のため川を、木柵と土砂で締切り導水していた。当時はこの施設が私達にとって格好の水遊びの場所であった。この施設は数年前堤防の改修後に立派な頭首工に変った。

3.川あそび
 川あそびは多かれ少なかれ誰にでもあると思うが私には一種独特な思い出がある。始めて川に入った時は思っていたほど水は冷たくなくむしろぬるま湯に入ったようだった。その時の感覚が母親に抱かれた時と同じ感じであった。その時の思いがからだと記憶に残り今でもあの川を思い出すたびに母親を思い出すほどである。私は虚弱な体質で育ったせいか幼い頃は運動神経が鈍くて友達のように泳いだり飛び込んだりすることが出来ず、あげくのはては溺れそうになったりしたことは何度もあった。そのうちにいつしか友達と同じように泳げるようになり天気の良い日は毎日のように川に行き、その途中でよその畑からトマトやキュウリはては未熟な桃までも失敬しみんなと川の水で洗い喰べたりして遊び唇が青くなるまで水につかり夕方遅くなるまで川で過した。川での遊びはいろいろあったが日照で渇水の時は水の流が普段の半分くらいの水面幅に狭まり砂場が出来た。そこでの遊びは相撲や向う岸にいる人達との石投げなどをして当時としては楽しかった。中学・高校時代は川での水遊びは少なくなり次第に陸に上がり遊ぶようになった。学校への行き帰りにはこの川の堤防を利用することもあり、早春には野火をつけたりして遊びある時、川岸にあったワラで造ってある鴨狩り小屋に火が移りその火を消すのに大変だった。
 この地方では、堤防の草は家畜の飼料であり河川敷は放牧地として利用されていた。そのため朝には朝草刈りを手伝わされ学校に行く前に牛や馬を放牧につれて行き夕方になると連れて帰るということを遊びを兼ねた手伝いをした。秋になると堤防の法尻にカスミ網を仕かけ小鳥を生捕り友達とその成果を自慢したりし、冬には、堤防の斜面を利用して自家製のソリで雪スベリをするなど川に対する想いは季節を問わずそれぞれ楽しい思い出があります。

4.おわりに
 あの川は、私に水のこわさや水の大切さを教えその上、自然や水に接するときの対処の仕方などを指導してくれた先生であり、又、学校の教師や親兄弟にも勝る恩師であると今になっても感じている。今は、この地をはなれた処に住んでいるが、折にふれ古里の川が懐かしく思い出される。
 誰かの詩に、
    「ふるさとは とおきにありて おもうもの・・・・・」
という句がありますが、今の私の心境そのものです。